狐が自分の目の前にいた。それは木でできた面だった。
恐らくあの狐のつけていたものだろう。その恐ろしげな形相には見覚えがあった。
そうだ夕日の狐はどこへ行ったのだろう。また自分は置いて行かれたのか。
「あ…」
孤独を恐れ狐を呼ぼうとして、自分は狐の名を知らないことに気付いた。
狐の名はなんというのだろうか。そういえば自分も名乗っていない。
出会ってすぐに眠りこんでしまったのだからそれも当然なのだが、
幼い自分にはそれがたまらなく恐ろしかった。見知らぬ男についていってしまった。
母に怒られてしまう、それはいやだ。狐の名を知りたい。自己中心的な考えだった。
「…坊?」
「う、」
「起きたのか」
「あ…」
狐であった。先は後ろ頭に面を回していたが、今はそれもない。
美しいあかいろが、自然に広がっている。それはまるでつくりもののように美しかった。
阿呆のように口を開けて現れた狐を見つめていると、狐が戸惑い気味に口を開いた。
「お前、名前は」
「…」
「か。俺は佐助」
さすけ、と何度も口の中で狐の名を転がした。
きっと自分はこの名を忘れないだろう。いつまでもいつまでも、刻み続ける。
「お前はこの下の人里の子供なんだよな?」
「…わかん、ない」
「そうか。そうだな、まだ小さい坊だもんな」
狐は自分を人里の子だと思ったらしかった。自分は子供ながらに悟った。
恐らく自分が人里の子ではなかったら、この狐は自分に恐ろしいことをする。
自分は知らぬふりをし、狐の手をつかんだ。
「…なに? さみしいの」
こくりと頷いた自分に、狐は優しく手を差し伸べた。不思議な手が頭を撫ぜる。
「そうだね、いきなりこんな森奥に迷いこんだらね」
「もりおく…、?」
「そう。ここは森の奥の奥、そのまた奥だ」
狐はそう言って笑った。そしてひとりで外へ行くなと狐は自分に言い聞かせた。
きっと狐の他にも恐ろしい生き物がいるのだろうと思ったのだが、
そうではないらしい。狐はゆっくりとかぶりをふった。
「ここは狐の里だよ」
「きつね、」
「坊がひとりで歩いたらみんな坊を食べてしまうよ」
「ひ、っ…」
恐れ戦く自分の頭を狐は優しく撫ぜつけた。大丈夫だと狐は言う。
「ちゃあんと、俺が守ってあげる」
そういって微笑んだ狐の顔は、暗闇に紛れて見えることはなかった。